シリコンカフェ@森川眞行のブログです。

森川眞行ブログ

Cheyenne/Hanoi Rocks

邦題は「涙のシャイアン」。ドラえもんに出てくる肥満児とは関係ないと思うが、シャイアンってのが何なのかはよくわからない。おそらくは人の名前だと思うのだが。

僕にとってのロックンロールは、20歳前後で一旦終了した。クィーン、キッス、エアロスミス…といったロックンロールをアルバムリリースとリアルタイムで追いかけてきたが、20歳前後で出てきたパンクロックによって購入するアルバムのカテゴリのメインが変更されたのだ。時期的にもエアロスミスからジョーが脱退したり、ジョン・ボーナムが死亡したり、キッスが活動を中止したり…みたいな背景があったことも大きいと思う。その後のニューウェーブと平行して走っていたヘビーメタルのミュージシャンは殆ど聴くことがなかった。というか聴いてはいけなかったんだな…パンク少年にとっては。

ハードロックやヘビーメタル、あるいは歌謡曲といったパンクやニューウェーブ以外の曲を聴くようになったのは30歳前後である。なぜかというと、その頃の僕はミュージシャンになるという夢が消えていたから。バンド活動もほぼ完全に終了していたし、若い頃は忌み嫌っていたカラオケも、むしろ好きになっていた。自分の聴く音に対してポリシーがなくなった。というか「楽曲として気持ちよければジャンルは問わない」というポリシーに変更になったというのが正しい。30の頃はアートディレクターとして多くのデザイナーやコピライターと一緒に仕事をしていた。仕事場にはステレオセットがあり、FMラジオやデザイナーが持ち込んだカセットテープをよく聴いていた。ハノイロックスやモトリー・クルー、スキッド・ロウなどの曲が仕事をしながらよく流れていた。

自分にとって「聴いてはいけないジャンル」という垣根を取っ払うと、とたんにレコードやCDを購入するジャンルが拡大する。過去20年近く封印していたジャンルの音源を手に入れると、なんだか得した気分になる。かつて音楽はミュージシャンの苦悩などをリスナー(僕です)が共有し、常にリアルタイムに新譜を追いかけていたものだったが、この頃から過去にリリースされた音源を買うことも多くなった。そうなると全部のアルバムを購入する体力が伴わないので、どうしてもベスト盤が多くなるのだが。

ハノイロックスの音源は、CDで3枚所有しているが、いずれもベスト盤だったりする。「涙のシャイアン」はその中でもお気に入り。メロディアスなロックンロールが涙腺を刺激するような曲だ。しかし楽曲としては、イントロのメロディアスなアルペジオでギターのチューニングが狂っているというおマヌケな曲でもある。だが多少チューニングが狂っていようと、気にならないくらいにミュージシャンの熱意を感じられる曲だ。そういう意味では、精神的にパンクだと思ったりもする。


実際に、かつて明確にパンクとハードロックに垣根があった時代を考えると、モトリークルーやハノイロックスは、両方の延長線上にあると思う。実はパンクロックなるものの音源そのものには、たいしたポリシーはない。ダムドやバスコックスといった王道のパンクを聴いていると、「反抗」とか「抵抗」とか、そういったくだらないイメージとは関係ないことがわかる。それはファッションだったり、古くさいイメージ戦略だったりもするのだ。単なる音源だけを連続して再生していると、ダムドやバズコックスなどとハノイロックスとの境はない。要は楽しめばいい。スピードとスリルがそこにあればいいのだと思ったりもする。それは自分が年齢を重ねて、ファッションと音源を分離して考えられるようになったことも大きい。

でもそれは、HTMLとCSSによる「情報」と「デザイン」の分離とはあまり関係ない。
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サブウェイ特急/矢沢永吉

矢沢永吉については、あまりよく知らない。とはいえ、僕は完全に矢沢の世代である。中学校3年生で「リブヤング」のキャロルのデビューも見たし、雑誌GOROの付録の音楽新聞みたいなやつで特集された、矢沢のソロデビュー(アイラブユーOK)の記事も持っていた。確か高校2年生だったと思う。大学の駐車場には「E.YAZAWA」のステッカーを貼っていたスカイラインを毎日目にしていたし、糸井重里の「成り上がり」も一応読んだ。

けど、僕は矢沢には興味がなかった。僕らの世代のメジャーでロックコンサートで盛り上がると言えば、矢沢永吉とRCサクセションと、ショーケンだったような気がする。けど僕は矢沢には興味がなかった。指示していたファン層とは同世代だが興味がなかった。

たぶん、それは生活スタイルの違いなんだろうな。僕が美術やロックに興味がなければ好きだったのかもしれない。親から運転免許を取得するためにもらった金で楽器を買わなければ、ちゃんと車の免許を持っていれば矢沢を聞いていたのかもしれない。

矢沢と言えば夏…って意見は多い。僕も今ならそれに同意する。しかし、僕は海水浴場で矢沢を聞いた経験も野外コンサートに行った経験もない。けど夏は矢沢だと思うきっかけになった出来事がある。

大学を卒業した僕は、とりあえず就職して親を安心させようと思った。大学を卒業してリクルートの「就職情報」を買って就職先を決めた。人生の大事な選択を、そんな簡単に決めていいのか…と思うが、やっちまったものは仕方が無い。初めて就職したのは大月楽器というレコード店だった。就職情報を買った次の日に、大学の入学式で買ったスーツを着て面接に行って即採用された。

なぜ、レコード店だったのか…というと、大学時代にずっとバンドをしていて、卒業してからもチャンスがあればバンドでデビューしたかったからだ。なんというユルい人生設計。どうせ仕事なんて「生きるために金をもらう」ために我慢して行うものだと思っていた。だったら好きな音楽が聞けるような仕事に就こうと思った。

僕が配属されたのは、梅田の地下街の小さな店だった。当時の大月楽器は大阪に何件も店舗を持っており、クラシック専門、ジャズ専門、ロック専門…という具合にそれぞれが店の特徴を持っていた。僕が配属されたのは、店舗の規模も小さく扱う商品は、いわゆる「売れ線」だった。つまり邦楽のポップスが中心。当時の僕は、バンドをしていたこともあり、それもパンク系のバンドだったので、当時の歌謡曲は自分の趣味とは全く逆の方向であった。

毎日流れる歌謡曲にため息を漏らして仕事をしていた。加えて店員ということで、毎日立って仕事をしなくてはならない。毎日足がパンパンに腫れた。入社して1週間で仕事を辞めたいと思った。

春に就職して、梅雨にさしかかったころ夏のキャンペーンが始まった。当時覚えているのは佐野元春の「サムディ」とタイガース再結成、チャゲアス、大滝詠一のロングバケーション、松田聖子のパイナップルなんとかってやつ。その中に矢沢永吉もあった。僕より10歳上で、必要なコト以外あまり喋らない店長がこういった。「夏は矢沢だな」。

なんだか、その言葉が妙に刺さった。普段は自分の好みを喋らない店長が、自分の好きな世界を語ったような気がした。

「え?店長、矢沢好きなんですか?」と聞くと
「いや…別に」と言う。
「でも、夏は矢沢なんだよ。夏が来ると矢沢が聞きたくなるやろ?」


と聞かれた。僕は「はあ…そうっすね」と言ったが、夏と矢沢は結びつかなかった。というか、好きでも嫌いでもなかった矢沢永吉をはっきり「嫌い」と思うようになった。

夏のキャンペーンソングが店頭に流れはじめた頃、僕は大月楽器を辞めて、再び「就職情報」を買って、南森町にあるデザイン会社の面接を受けに行った。

嫌いな矢沢だったが、最近「サブウェイ特急」をiTMSで聞いて、かっこよかったので購入してしまった。どうやらこれはセルフカバーのバージョンのようだ。

ちなみに、今では「夏は矢沢だ」という言葉はなんとなく理解できる。
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5 Minutes/Stranglers

大学受験をしていた1977年、大学に入学した1978年から1981年までの間は、ロックンロールの歴史の中でも、パラダイムシフトを迎えていた時代だったと思う。それらのすべてのきっかけは、1977年に起こったパンクロックがきっかけだ。その後のニューウェーブ、テクノ、ノイズ、ハードコア、インダストリアル、ネオサイケ、スカ、ニューロマンチック、エレクトリックダンサブル、オルタネティブ…。とさまざまな音楽ジャンルが産まれたのがこの時代。多様化する音楽の基本になったのが1977年のパンクロックだったと思う。

パンクロックは音楽のスタイル…と定義するのは難しい。僕がパンクロックから教わったのは、以下の3つだ。

■今までにない「新しいもの」であること
■自分たちの手で創り出すこと
■やりたいことを、すぐに行動に移すこと

ストラングラーズをパンクロックとして認めない見解もあるようだが、僕はストラングラースはパンクだと思う。パンクだから髪の毛を短く切って逆立てる、ガリガリに痩せこけた体型に穴の空いたジーンズか、レザーパンツ。鋲を打った革ジャン。こういうスタイルであることがパンクだと信じている奴はアホだ。同様にギターはコードを打ち鳴らすだけ…みたいな演奏スタイルでなければパンクではない…という見解もアホだ。これらはパンクではなく、セックスピストルズやダムドやバズコックスとかのカバーなのである。まあ、他にもクラッシュとかジェネレーションXとか、同様の音楽スタイルがこの時期に多く出て来たから、ひとまとめにパンクと呼ばれるのだろうけど。

そういう見解では、ストラングラースはパンクではないかもしれない。メンバーのひとりはヒゲを生やした長髪だし、オルガンやシンセなどを使っていることで、パンクではない…という見解もあるだろう。音楽面でも、いわゆるガレージサウンド一辺倒ではなく、凝った音楽創りをしている。そういう意味では、パンクという言葉を単なるレッテルを貼るような意味で考えるのであれば、パンクというジャンルに入れない方がストラングラーズの名誉だと思ったりする。しかしながら、ストラングラーズがデビュー時から確立していた演奏スタイルは、1977年の段階で「今までにない新しい」音楽スタイルだっと思う。

その音楽スタイルの要は、やはりジャン・ジャック・バーネルのベースにあったと思う。通常バンドをやる場合のベースの役割は、あくまでもリズムの補助、あるいは低音部を支える。という役割だ。全体のアンサンブルを考えると、メインになる楽器ではなく、あくまで後ろで楽曲を支える役割だった。しかし、ストラングラーズの場合は、まずベースの音がデカイ。そのデカイ音量のベースが、今までなら「リズムギター」(…なんというダサイ呼び方)が担当してい領域でリズムをカッティングしたり、リフで楽曲をグイグイ引っ張るようなやりかただ。そして時にはギターがリズムを刻み、ベースがソロを弾くような場合もある。

今となっては、別段何ということのない音楽スタイルかもしれないけど、はじめてストラングラーズを聞いたときはぶっ飛んだ。おそらくそれは僕だけじゃなく、1977年当時にパンクやニューウェーブを開始していたバンドマンの多くは、何かしらジャン・ジャック・バーネルに影響されていると思う。今まで「日陰モノ」というベーシストが、急にフロントマンとして注目を浴びるような感じだ。

ストラングラーズの中では、この「5 Minutes」が一番好きだった。ストラングラーズを初めて買ったのは大学2年の時の、ライブ版である「X CERT」だった。それまで友人に借りたファーストアルバムも聞いていたが、このライブにはぶっ飛んだ。その中では、アルバムのクライマックスで演奏する「5 Minutes」が僕にとっては、特別に光り輝いていた。

この「5 Minutes」は、アルバムで言うところのセカンド「NO MORE HEROES」とサードアルバム「BLACK AND WHITE」の中間にレコーディングされた曲だ。再発されたCDにはのボーナストラックとして入っているらしい。そういう区切りの時期でもあるせいか、初期のストラングラーズの総決算みたいな曲だと思う。要するに思い切りがいいのだ。

1979年くらいになるとい、初期の多くのパンクバンドは解散していることが多い。でもストラングラーズは生き残っていた。というか、自分たちにやりたいことがあるから、次々に新しいアイデアを形にしていたのだと思う。そしてストラングラーズは、演奏がうまかった。このアルバム「X CERT」を聞くと、本当に演奏能力が高いことを知る。当時のパンクバンドって、やはりライブがメインで活動していたが、その演奏そのものは、ひどい出来だった。演奏がヘタクソだから、パンクなんだというトホホな見解もあるくらいだ。

僕は「5 Minutes」は、シングル盤でも持っている。それは「X CERT」のライブ演奏から1年後くらいに、ドーナツ盤(確か日本語版)で購入した。つまり演奏としてはライブで聞いた方が先だったのである。そのシングル盤を聞いて驚いた。スタジオでの演奏内容がほとんどシングル盤と同じなのである。彼らがいかに練習熱心で、かつ演奏能力が高いのかがわかる。

そして、それは1980年に来日したコンサートでさらにオドロクのである。ストラングラーズを見たのは、京都大学西部講堂だった。かつてアングライベントのメッカは、この当時パンクのメッカになっていた。季節は冬。ご存知のように京都の冬は厳しい。多くのパンクスは革ジャンに身を包んで西部講堂に集合した。座席なしのオールスタンディング形式のギグ。とにかく入場順にステージの前から詰め込まれる。僕らは、昼一には西部講堂に集合していたので、ステージから2メートルも離れていない所だった。やっぱパンクってのはこうでなくっちゃ。

もう演奏が始まるまえから息苦しい。周囲は朝の通勤時の中央線のように、全く身動きできない状況。そんな中でストラングラーズの演奏は開始された。当然、演奏開始から会場全体がポゴ状態。この当時はダイブするやつは少なかった。ステージの脇には、本当にプロレスラーみたいな体型をしたスタッフが何人かいて、ステージに上がろうとする奴がいると、その場で蹴飛ばしていたし、あがってきた奴は自分からダイブする間もなく、そのままステージの脇にずるずると引きずられていった。

コンサートが進むにつれて、集団酸素欠乏状態で、朝の通勤電車状態のまま、つまり立ったまま気絶する奴が出て来た。ステージのプロレスラーは、立ったまま失神している客を見つけると、まるで大きな大根を地面から引き抜くみたいに、ズボン!と気絶している人間を引き抜いて、ステージの横に並べていた。それはまるで死体安置所か、冷凍マグロのようでもあった。気絶している奴の多くは女の子だった。

およそ90分間。あのストラングラーズサウンドが、ほぼノンストップで大音量で流れた。ほとんどMCなしのガチンコ勝負だった。僕が体験したライブの中でもベスト5に入ると思う。それは集団酸欠状態という異様な状況だったからではなく、ライブアクトとしての質の高さだ。

ライブが終わって、真冬の京都の寒空にコンサートを終えたパンクスが出てくる。殆どの客がまるで衣服を着たまま風呂に入ったみたいな状態になっていた。ディップでビンビンに尖った髪の毛は、汗でへなへなになっており、スージー・スーみたいなメイクをしたパンク少女は、レイプされたような顔になっていた。ドクター・マーチンの中にはまるで水が入っているようだった。そのまま靴を脱いでひっくり返すと、汗が水のように流れそうな感じ。…でもみんなニコニコして、頭から湯気を出して(冬の夜なんで本当に湯気出てたですよ)帰って行った。
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Ain't Talkin' 'Bout Love/Van Halen

邦題は「叶わぬ賭け」。1978年にリリースされたファーストアルバム「炎の導火線」の4曲目。1978年と言えば、大阪芸大の美術学科に入学した年である。当時の僕が聞いていた音楽は、パンクやニューウェーブ。というか、それ以外は音楽ではない…と思っていた。

パンクロックが出現してきた背景は、ディープパープルなどに代表されるハードロックや、音楽が産業化して大量に消費される時代へのアンチテーゼだったように思う。もともとは反抗の象徴だった、男のロングヘアはこの時代では、オールドウェーブとして扱われたし、自由の象徴としてヒッピー文化を中心に蓄えていた髭も侮蔑の対象だった。かつての価値観に別れを告げ…というか、かつての価値観を憎悪の対象して、何か新らしいものを自分たちの手で創っていこう…という姿勢がパンクロックだった。

大学に入学したばかりの僕は、マルセル・デュシャンやダダイスト達。あるいはポロック以降の現代美術を学びたかったこともあり、モノ作りをする価値観で、もっともプライオリティが高いものとして考えていたことが「新しい価値の創造」みたいなものだった。

なんだかいま「新しい価値の創造」なんて文言を書くと、情けないベンチャー会社の負け惜しみみたいだけど、当時は真面目にそう思っていた。若かったのだ。なんせ20歳にもなっていなかったのだから。

そういう状況下で、ハードロックというだけで、どんな音楽も嘲笑の対象だった。実はレッド・ツェッペリンもエアロスミスも好きだったし、モントローズやスコーピオンズも好きだったけど、トモダチには「そんな音楽を聞いているのはアホだ」とか言っていた。実際にアホだったのは、どっちだったのか…と今考えると明確だけど。

まあ、ハードロックはクソ。みたいなコトを言っておきながら、それでも70年代の後半に出て来た若いバンドに対しては、若い故に過去のハードロックとは異なり、新しい価値がある…などと言って、チープトリッックみたいなバンドは「イケてる」とか言うことはあった。その中にヴァン・ヘイレンがあった。

しかしながら、本当のことを書くとヴァン・ヘイレンは画期的だったと思う。当時では考えられない斬新なギターテクニックを考えると、十分にパンクだったと思う。新しい価値観の創造なのだ。いや…実際には画期的というよりは衝撃的だったと言ったほうがよい。最初に針をおろして二曲目のエディのソロである「暗闇の爆撃」を聞いたときは、思わず「なんじゃこれ!」と呟いた。


そのファーストアルバムで最も好きだったのが、この曲。なによりイントロのリフにノックアウトされる。このアルバムはおなじ大学で、パンクを熱心に聞いていない音楽ファンの中で大いにウケた。みんなこのアルバムを買ったと思う。そして、みんなこの曲が好きだった。3曲目の「ユー・リアリー・ガット・ミー」と「叶わぬ賭け」は、学校の中で行われるコンパや宴会でよく演奏された。みんなあのイントロを弾きたかったのである。

この曲を演奏する際には、ディストーション以外にフランジャーが必要だった。イントロの二小節目の終わりで、カチン!とフランジャーのスイッチを入れる。ギューンキューン!とジェットマシンのようなディストーションにみんなシビれたのだ。

1978年という、世界がパンクロックを評価している時代に、こっそりパンクスに受け入れられていたヴァン・ヘイレンは偉大だと思う。
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